13世紀のイタリアの占星家ボナタスは、占星術師に質問をするカレント(クライアント)にも神に祈れと忠告します。これは、占星術師はカレントよりも深く祈っていて当たり前だと言外に述べているようなものです。
17世紀のイギリスの占星家ウィリアム・リリーも、学生たちへの言葉に、まず始めに神に祈れと忠告します。神に祈らなければ判断を間違えるからともアドバイスします。ホラリー占星術においては、明らかに祈るという行為を勧めるので宗教と言えなくもありません。実際、生活を正せば正す程、読み解きやすいチャートが目の前に現れるものです。でも、占星術で星の言葉を読み取ることを行っている人々は、占星術は宗教的な行為とは言えず、宗教と私に何も関係は無いと考えていることがほとんどでしょう。
「星を読むことができるとしたら、それを書いたのは誰?」
これへの答えの一つは、この宇宙には超自然的なエネルギーが活動していて、その高次のエネルギーが全てを統率しているからというものがあります。
それは昔の人が神とか仏とか呼んだものに近く、宗教を嫌って、偉大なる存在とか、聖なるエネルギーと呼み変えているだけなのだと思います。偉大なる存在を認める時点で、それは宗教性を帯びてしまっています。ただそれは、自分達の求める価値観に従うものであり、宗教を毛嫌いするスタンスや、何事も宗教性を帯びていくことを切り離したい価値観の為せるわざです。
星の位置は何か意味を語っていると考えることは、この宇宙の何らかの法則性を認めていることになります。
東洋の哲学に唯心論というものがあります。多くの西洋の占星家も、自らの星を読み解く行為を東洋の哲学に求めます。
唯心論とは、心がこの世界を表出していると考える思想です。表層意識、潜在意識、超潜在意識の全ての範ちゅうから、この世は思い通りにできていると考えるものです。もちろん、一番強く作用しているのは、超潜在意識のほうであり、表層意識、潜在意識と順番に整えていかないと、現実はなかなか変えることができないと考えています。でも、一旦心のシステムを把握すれば、超潜在意識が変わってしまえば、どれだけでも現実を変えていくことが可能だと考える思想です。
その為の日々の試練だとも、とらえるわけです。どんなことがあっても、へこたれなければ、心は明るくいられます。心が明るく軽くいられれば、明日も好転していくことでしょう。その唯心論によれば、星の位置さえ心が決定するわけです。というか、良い時間に、星を選ばせてしまうような心の状態になっているということでしょう。心が選んだ星の位置ですから、星は読むことができます。
心と星の位置の表出だけを問題にすると、何も見えてきません。そうなっているシステムを作り上げたのは誰? ということになるはずです。もっと偉大な魂ではないのか? もっと偉大なエネルギー体ではないのか? と、自ずから導かれるわけです。
占星術が宗教そのものであるというつもりは、まったくありません。西洋占星術には、宗教的な概念が様々な形で入り込んでいると捉えざるをえないのです。
「Kuni.は西洋占星術を宗教にしようとしている!」 そういう目で捉えると、そう捉えられてしまうくらい危うい領域に入り込んで話をしているのは充分わきまえているつもりです。 それでも、「もし占星術が言語であって私達が読むことができるのならば、誰が、あるいは何が、星を使って書いているのでしょうか?」このフレーズはとても好きです。
西洋占星術では、天文学とは違って、神がその天球の一番上の部分から地上をコントロールしていると考えています。この宇宙観のスケールはとても大きく、外へ出て夜空を眺めて感じるしかないようです。
それはどういうものかというと、まず地球が中心でその地上に死をむかえるべき我々も含めて、多くの動植物が住んでいます。
一つ上の天球は月の天球と呼ばれます。
その上が水星の天球、
金星の天球、
太陽の天球、
火星の天球、
木星の天球、
土星の天球と続いていきます。
その上は、恒星の天球になります。ここまでが目で見える天球です。ここに神話の神々が住んでいます。
その上に、架空の天空であるサインの天球を想定します。これが創造神の位置です。
この他に神の天球という特別なものはありません。これらの天球を想定することは、学校で習った天文学的な宇宙とまったく違いますね。
聖書で神は次のように述べます。ヨブ記(38: 31−33). 「英文より翻訳」
おまえはスバルの鎖を引き締め
オリオンのベルトを緩めることができるか。
おまえは季節が来たれば銀河を張り出し
大熊と小熊を導くことができるか。
おまえは天の法則を知っているか
おまえは地上にその支配を及ぼすことができるか。
これは創造神が声高らかに、星座を作ったのも私で、その法則を知りつくしているのも私で、星座を含めて地上にまでその支配を及ぼしているのも私だと獅子吼している個所です。実際の聖書ではもっと威厳に満ち満ちた邦訳になっています。
星座。
一方、ギリシャ・ローマ神話によれば、始めに名もない神がいて、その神と自然が手を下してこの世を形作っていったことになっています。その後、神話に登場する神々が多くの星座を作っていきました。神話の中で、アポロンの息子であるパエトンが父の宮殿にたどり着くと、アポロンの神殿の銀の扉に、両側に六つずつ、既に十二のサインとその印が刻まれていたとなっていますから、神話の産まれた時代には、既に十二のサインは決まっていたものと考えられます。ただ、この逸話の部分が神話の作られた始めのころから挿入されていたかどうかは定かではありません。
こうやって聖書と神話から考えると、創造主(名もない神)と、恒星の天球(=つなぎ合わせた星座)に留まった神々の、大別して二種の神が想定されます。
日本の神話を調べてみると、古事記に出てくる「アメノミナカヌシノミコト」、天の御中心を司る命(ミコト)(一説には太陽のことであると言われますが、そのうち隠れて見えなくなったとあるので、もっと象徴的なモノだと思われます)や、タカミムスヒや、カムムスヒの神は、一人神です。一方、いざなぎの命、いざなみの命は、男女別の性を持つ神々です。
聖書に登場する創造主も、結婚を標榜しない神です。
仏典でも、神々の上の段階になると、雌雄が分かれていません。
つまり、幾つかの神話や宗教でも、精神的なレベルが上れば上がるほど、もはや性欲に支配されない世界があるようです。どうやって子孫が生まれるのかというと、仏典によれば、蓮の花のようなものの中から、その当該の世界に新たに転生してくる魂は生まれることになっています。
神話に戻ると、恒星をつなげた星座と、その星座の間を遊ぶ神々は、時には人間に恋をしたり、嫉妬したりもする、男女別々の神々です。ここにおいて、星座に棲む神々はその心の状態を観察すると、かなり創造主と異なった要素を持っていると捉えられます。なぜなら、我々の知っている人の心の働きとよく似ているからです。
ですから、神にも二種の概念が想定されることになります。
一人神、激しく心を変えないで、法則そのものを司る創造主です。彼は春分点を支配していて、常に春になれば春をもたらします。春分点に来れば春になる点を含む黄道帯十二サインを司っています。
もう一方の、恋をし、闘争もなし、嫉妬もし、子供も雌雄の何らかの結合で作る神々、心変わりを幾分してしまう男女別々の神々は、神話に登場するように、恒星とそれをつなげた星座の天球が与えられています。そして、星座を作ったと声高に延べる創造主の天球の内側を、男女別性の神話の神々が、恒星の天球をゆっくりとではありながら移動しています。
こう考えるのが、西洋占星術です。
創造主は、けして自分の作り上げた時々浮気もする神々の内側を春分点を担ぎながらとぼとぼと歩んでいません。
創造主の天球(サインの、つまり春分点のある天球)の内側を、恒星とそれをつなげた星座(浮気もする神々)の天球が、少しずつ前に進んでいると考えています。この動きはとても遅く、約2万年かかることになっています。
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2008年 2月23日